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移住クリエーターインタビュー:ミヤタ ユキさん

純度の高いアートが生まれる瞬間を目撃したいと思ったら、常陸太田にいた!という現代美術家のミヤタ ユキさん。
現在、茨城県常陸太田市在住、常陸太田市で様々なアートプロジェクトを展開しているミヤタさん。茨城で活動するようになった経緯、実際茨城で活動してみて、そしてこれからのことなどいろいろとお話を伺ってきました。

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ミヤタ ユキさん
茨城県水戸市出身。東京芸術大学大学院修了/現代美術家、ディレクター、Kenpoku Art 2016茨城県北芸術祭キュレトリアルアシスタント、アートスペース・ロクロクリン管理人。
創造の本質と純度の高いアートが生まれる瞬間を目撃するため、地域で活動。
アートは談論である、をテーマとしている。
地域のパワーと地域に溢れるクリエイティビティを共有し、様々な関係性が生まれて欲しいと始まった『井戸端アート』。
竜神峡で開催される『鯉のぼり祭り』で使用されたコイノボリを再活用し、頭からシッポまでアートしよう!という『水府コイノボリプロジェクト』などを展開。
住民と芸術家がつくる芸術祭『ヒタチオオタ芸術会議』のディレクションも行う。
自らがアトリエとして使う古民家『ロクロクリン』を他のアーティストに開放する取り組みも行っている。

幼い頃から生活にアートがあった

ミヤタさんは茨城県の水戸市生まれ。家の近くには水戸芸術館がありました。水戸芸術館が一番近い公園で、ギャラリーが自分の庭のような感じだったといいます。

アート作品も夢も現実も、あまり境がわからないような子どもでした。両親から離れてふとギャラリーに迷い込むと、次から次へと異世界が広がって行く。小さい頃はギャラリーなんてわからないので、それも不思議な日常の一部でした。

高校生になり、参加したのが水戸芸術館が20年ほど前から取り組んでいる”高校生ウィーク”という教育普及プログラムでした。

高校生が水戸芸術館のギャラリー内の一室に集まり、様々なプログラムに参加するというものでした。そこで初めて、芸術の中の仕組みを垣間見た気がします。美術やクリエイティブなことを仕事にしている大人たちにふれ、美術の世界で生きる事が自分にとって最も自然なように感じていました。そのころに出会った大人や同世代の友人は、今でも私の人生においてとても重要で、多様な繋がりが続いています。

現代美術家(アーティスト)やデザイナーのなど、イメージを創ることを職業にする人たちに囲まれた環境。アートはミヤタさんにとって日常であり、その世界へ進むことはごく自然なことのようでした。
ミヤタさんは多摩美術大学へ進み現代美術を学び、卒業後、アーティスト活動をしながら、森美術館のミュージアムショップに勤めます。

六本木ヒルズの最上階にある森美術館は、とても興味深い場所でした。現代美術のファンだけでなく、普通のバスツアーで観光客もたくさん来るのに、バリバリの現代美術を展示している。そうすると、ほとんどの人は訳が分からないまま見ている。店頭に立っていると時々、おばちゃんに怒られたりしました。「何なのこれは!意味分からない!」とか(笑)。不良っぽい若者とかも、「わけわかんない!」とか言いに来たりする。そこで、「あれはあーゆう意味があってで、こういう風につくられているんですよ。」とか少し説明すると、あーそうなんだ、もう一回見てくる!とか言って急に興味をもってくれたりとか。もちろん、ふーんとか言って帰っちゃう人も多いけど。「俺、アート好きだわ!おもしろい。もっと喋りたい」って言ってくれたマイルドヤンキーなお兄ちゃんとか、何人か記憶に残ってます。そういうことが楽しかった。

しかし、そのころはアートの存在を遠く感じていました。どうやったら、自分のやっていることがアートとして認められるのか、まったくわからなくなっていたそうです。
大学では、少しは評価されていたこともあり、そのうち売れるだろうと漠然と思っていました。とにかく自己表現ばかりしていて、自分のやりたいことは山ほどあっても、社会との繋がり方はさっぱりわからなかったんです。いろいろなことをやってみても、手応えも感じられない日々が長かったです。今考えたら、いくらでも方法はあったとは思いますが、その時はわからなかった。

生活の本質をもとめ茨城に

評価される事もなく何をやっても手応えがない、飽和状態の東京で活動を続けることに、疑問を持ちはじめていました。
そして、このころ東日本大震災が起こります。
東京ではパニック状態が続きました。東京がこれだけ大変なのだから、茨城はもっと大変な事になっているに違いないと、ミヤタさんは実家や友人に連絡をとります。

連絡すると、平然としていて驚きました。もちろん想像を絶する様々な事があったはずです。でも、近所や住民同士で助け合ってるから大丈夫と。東京で起こっていた”買い占め”なんてこともほとんどなく、逆に心配されてしまいました。

それまで感じていた何か違うな、何をやってもやった気にならないとか、これ以上何かをする気になれない、そういう気分みたいなのが腑に落ちて。

東京が地方を動かしていると思っていたら、地方が東京を動かしていたのかとふと気づいてしまったんです。東京が生かされていたんだな、私の探していた本質はないのかもしれない。創造力の根源は、もっと小さなコミュニティにあるように感じました。

大震災が起こった時、六本木ヒルズの50階にある事務所で、徐々に静かになる東京とインターネットで配信される東北や茨城の中継をただ見ているしかなかったといいます。それからずっと、何とも言えない罪悪感が消えなかったと。
このまま東京にいていいのか、このまま活動をし続けることに意味があるのか、という思いが膨らみ続けました。
『茨城で起こり続けている事に、立ち合えていない自分がかなりもどかしくて。』
茨城に戻りたいと強く思うようになりました。
ちょうどその時、知人から茨城で仕事をしないかと連絡を受けます。
悩んだ末、2011年11月に茨城へ戻ります。茨城にもどるということは、アートを諦めることと思っていた当時、それは大きな選択でした。

茨城ってものすごくアートだった!

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『ヒタチオオタ芸術会議2015』

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『ヒタチオオタ芸術会議』の会場のひとつ“ロクロクリン”。里美地区、水府地区、金砂郷地区の3地区で行われました。常陸太田で暮らしながら芸術会議を行ってきたアーティスト、ゲストアーティストの作品に加え、地域の皆さんの表現活動を展示しました。

茨城での仕事は、風評被害からのイメージ回復のための観光事業のディレクターでした。

月に1,2回、ほとんど飛び込みで、茨城各地でイベントをし続けました。
驚くほど多様なたくさんの人に出会い、助けられました。こんなにしみじみと茨城と向き合ったのは初めてでした。ほとんど知識がなかったために、瞬発力重視の普段とは違う視点のイベントを開催していました。
お金のかわりに、褒め言葉をたくさん書いたカードを渡す食べ歩きを企画したり、その地で会った人やモノをベースに、30-50人くらいを対象にした各地で全く違うイベントを行いました。プロデューサーが、美術館の元学芸員だったこともあり、今考えるとワークショップそのものでしたね。

アートと全く違う世界に足を踏み入れたと思ったら、いつの間にかアートの中心に立っているような気分だったといいます。約2年半観光の仕事を勤めた後、2013年に東京芸術大学大学院へ入学し、地域におけるアートの在り方についての研究を始めます。

そのころ常陸太田市では”地域おこし協力隊”の取り組みが進んでいました。そして、その一環で2013年10月より開始された、常陸太田アーティスト・イン・レジデンスのアーティスト兼ディレクターに就任します。

50年後、100年後に興味がある。

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『井戸端アート』地域のお母さんたちが作った美しい”吊るし飾り”。色鮮やかな吊るし飾りが窓辺でゆれてとてもきれいです。

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『水府コイノボリプロジェクト』プロジェクトメンバーが集まり裁断の作業をしているところ。裁断したものは各自持ち帰りエコバックに仕上げます。

常陸太田での活動では、”生活のための芸術”をテーマに、芸術家がゲストという枠をこえ、地域との繋がりを自ら見いだし、それぞれが生活と関係の中で新たな芸術の在り方を探究していくという仕組みを提案し続けました。

そもそも”地域おこし”という言葉が嫌いで…地域のため、地域活性と行うことが、地域で何かしら活動することの本質なのか。本当に地域のために美しく作用しているのか疑問です。過疎地に住んでいるだけで、『偉いね!』と言われたりする。不思議です。
美しい地が誰の手にも荒らされず、美しく幕を閉じる事が最善かもしれない。
私が、この地に住んでいることが地域にとって良い事なのか、それは誰にも分からないですよね。それでも、やはり、日本の5割を占めながらも若者がほとんどいない過疎地は現実で、そうなっている本当の理由を自分で見て自分で思考したいし、そんな地域で、アートがどのような関係性をつくりだすのか、とても興味があるんです。

乳幼児から高齢者までの全ての住民を対象に、様々な場所でワークショップやトークショーを開催したり、地域住民とアーティスト達が、共につくる芸術祭”ヒタチオオタ芸術会議”を1年ごとに企画したりと、アートと地域の関係を問う活動をし続けました。地域には徐々に受け入れられましたが、行政の仕組みでアートプロジェクトを行う事の難しさに、常に悩んでいたと言います。初めての取り組みで運営組織もほとんどなく、アートやアーティストのことを理解してもらうのはとても難しいことでした。
2015年9月、ミヤタさんは任期を終了します。

”常陸太田アーティスト・イン・レジデンス”がきっかけで、常陸太田で作品制作をするようになった作家の多くが、今でも市民と独自の関係性を気づきながら活動を続けています。地域のみなさんの寛容性とアートへの関心の高さ、創造力の高さにはいつも感動します。
想像以上に、多様な仕組みがつくられ続けていると実感しています。ゲストアーティストを呼ぶときも、私自身が活動する時もそうですが、今この地で起こる事を考えているわけではなく…私が興味があるのは、短くて10年後のこの地やアートの世界。
もっと言えば50年後、100年後に興味があるんです。どれだけ、この、今の段階では新しいと思われている仕組みが浸透して、生活や文化になっているか。アーティストとかアートという存在が、どう変化し続け、いかに生きる事に作用するのか。そんなことを想像しながら、いろいろなプロジェクトを行ってます。

アートによって、日常からちょっとした非日常が生まれ、非日常という”わけが分からない!”を受け入れようとすることを繰り返す事で、寛容性や思考の範囲が拡張され、生活における選択肢を増やしていければ良いと思う、とミヤタさんは言います。

純度の高いアートが発生する瞬間に立ち会いたい。

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『ヒタチオオタ芸術会議』の打ち上げのときの様子。用意していたデザートのケーキを配るミヤタさん

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『ヒタチオオタ芸術会議』打ち上げの最後にみんなで記念撮影!

手がけているプロジェクトに、地域のお母さん達がアーティストになり作品を生み続けている「井戸端アート」、竜神峡の”鯉のぼり祭り”で使用されたあと処分される分のコイノボリを利用し、頭からシッポまでアートする!『水府コイノボリプロジェクト』、地域住民とアーティストとで意見や創造力を持ち寄り、つくる芸術祭『ヒタチオオタ芸術会議』があります。

アートは談論である。が、私の活動のテーマです。アートは議論であり、談話であると思うんです。言葉を発するだけの談論ではないですけど。芸術を仕事にしたり、芸術を信じる人達だけが芸術の恩恵を受けるわけではなくて、そこから多くの談論が起こる事が重要なのではと感じています。より多くの枠組みの中で、あくまでも”アート”として、より多くの人と関わりたいんです。
私のやっているプロジェクトも、根本のテーマは一貫していますが、いろいろな枠組みやシステムを構築することを心がけてます。それによって、偏らずに多様な価値観を持った人達が、それぞれのリズムでアートと関係できるかなと思って。

プロジェクトを進めていくと、効率重視になることも少なくないそう。自分の仕事は、ムダをつくり出して、そのムダを全力で面白いものにする事だと思う、とミヤタさん。

地域の人がムダだと思っていたことを、私は本当に美しいと思う事が多くて。純度の高い創造性とか、アートが生まれる瞬間を見たいと思ったら、今、ここで活動する事がベストだったんです。人間の本能とか本質がうむ創造性って、究極にワクワクする。そういうものに触れてほしいんです。地域の日常で起こり続けている、とてつもなく面白いことをきちんと提示したいとも思います。過剰にでなく、ここで起こっている事をそのまま、世界中のたくさんの人と共有することが最大の課題です。地域で”ただ”起こっていることかもしれないけど、アートが介する事で、もっと、地域の持つ普遍的な特有さみたいなものに向き合って、議論してもらえればいいかなと思っています。生活や地域の人がつくったものを、アートだぞ!どうだ!って言うのって、かなり危険な事でもあるし、だからこそ本気で丁寧に取り組み続けたいです。

ミヤタさんは地域の人たちとは違った目線で地域を見つめ、これまであったもの、こと、に対して価値を見いだし、命を吹き込む作業をとても丁寧に行っているように思えました。

そして、地域の人たちの創造力やアートの関心の高さ、寛容性、などにも驚かされました。
活動している地域のお母さんたちのキラキラとした笑顔がとても印象的でした。

(Text/Photo: 山野井咲里)