右からDigital Dishi の高橋信泉さん、真ん中が高橋さんの奥様、美樹さん

昔も今もここから。新しくなった『かどや』

活気のある街には中心的な場所や建物があります。今、そんな場所になりつつあるシェアオフィス『かどや』。昔も今もここから。街の活気を取り戻すべく新しくなった『かどや』が始動しました!

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右からDigital Dishの高橋信泉さん、真ん中が高橋さんの奥様、美紀さん。日本中を自転車で旅をしている途中、音楽が縁で高橋さんのところへ。広島県出身の山口浩史さん。

茨城県日立市。常陸多賀駅の商店街の中に『かどや』はあります。
かどやさんと言えば地域でアイスキャンディーなどの名物商品で親しまれたお店。商店街の顔でした。昔の写真を見ると当時の賑わいが伺えます。しかし、時代の流れとともに地域の人たちに惜しまれながら2014年4月に閉店してしまいました。

地域の人達が街の再生を望む中、『かどや』は、建物の中が改装され、2016年マイクロクリエイションオフィスとして再び動き出しました。

6月に広告やデザインなどを提供する『Digital Dish』、イベントプロモーションなどを行う『Mプロモーション』が開業。7月にパン製造販売店『森のパン工房』、8月には『Cafe  Cream』がオープン。全て揃って、活動中です。

今回、広告やデザイン、プランニング、音楽制作などを行う『Digital Dish』の高橋信泉さんにお話を伺ってきました。

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プロフィール:高橋信泉(たかはし しんせん)さん
茨城県十王町(現日立市)生まれ。9才より独学でギターを始める。
多賀高校卒業後単身渡米。日本工学院音響芸術課程修了。1997年より10年間、東京の伝説的クラブclub asiaを演出。主に音響とDJを務めながら頭角を表しMusicmine『Isolated audio players 2』で楽曲デビュー。くるり、レイハラカミなどと名を連ねる中で賞賛を受け以降W−indsのリミックスやユニクロのCM、寺山修司の舞台音響などを担当。オリジナル楽曲がベルリンのレコード会社『Scape』のステファン・ベトケの耳に止まり12inchレコードによって『No1 ep』がワールドリリースされ海外のレコードファンからも多くの支持を獲得。現在の活動はDJとしてマルチメディアアートへの参加露出や店舗のスーパーバイザーなどを行いながら日常的な風景にDJを存在させる活動を推進。
SL9主催(http://sl9.jp) DigitalDish inc.主催(http://digitaldish.tokyo)

 高橋さんは茨城の県北に位置する茨城県日立市十王町で生まれ育ちました。海もあって山もある自然に恵まれた環境でした。

高校までは地元で過ごしましたが高校卒業後はアメリカへ渡り、アメリカの壮大さや音楽の影響を受けて、何かしたいと野心が芽生え東京でやりたかったDJの道に進みます。その後結婚、子育てとこれまでとは違うライフスタイルになっていきます。子育てのために奥さんの生まれた群馬へ移り、そして2016年には茨城へ。

なぜ高橋さんはまた生まれ育った茨城へ戻ることを決めたのでしょうか。

茨城で過ごした少年時代

 高橋さんの家は山の上にありました。近くに友達の家がない離れた場所にありました。そのころの遊びと言ったら、周りの友達はファミコン。ちょっと離れたところに町営住宅があり、そこには子供会がありました。でも高橋さんは家が離れていたため、そこの子供会に入ることは出来ませんでした。友達が遊んでいる輪の中に入れずにただ眺めてることしか出来なかったと言います。

そのころの高橋さんの遊びと言ったら、ギターを弾く事でした。お兄さんが作った悪魔の木という秘密基地でよく遊んでいたそうです。

秘密基地でずっとギターを弾いていた。ギターを弾いていると、近くに小鳥が寄ってきて歩いたり、ヘビとかも近くに寄ってきて。そういう感覚が楽しくて。

家での遊びはといえば父のオーディオコンポ。おもちゃ道具は何もなかったと言います。当時の一般家庭とはちょっと違っているのだな、と感じ始めた頃でした。

 長男はまじめで学校では吹奏楽部。なのに家では爆音でパンクを聞いてる。セックスピストルズとか。真ん中の兄がビジュアル系のロックが好きで、ヨーロッパのビジュアルバンド、インダストリアルな音楽を。デビット・ボウイは兄の影響でずっと聞かされていた。

父が初任給でステレオデッキ、今で言うオーディオコンポ(ステレオデッキ、レコードプレイヤー、ラジオチューナー、テープデッキ、マイクアンプが付いていた)を買ってきた。
父の部屋に置いてあったこのオーディオコンポが3人兄弟の遊び道具だった。その横には歴史の分厚い本が全20巻とか並んでいて。家の中にはおもちゃが何もなく、父の部屋の、父のものが遊び道具だった。

一番上の兄が本にはしり、僕は自分の声をマイクで録音してゲラゲラ笑ってたり、真ん中の兄が壊れたレコードをかけて、針が何回もループして。円広志の、とんで〜とんで〜という曲があったんですけど、ずっと、とんで、とんで、とんで、ととと、とんで、て鳴っているんですよ。それこそ、今のスクラッチとかループミュージックはそこから来てるんじゃないかと思うんですよね。(笑)

アメリカ、そして東京へ

気づくと、当時、ウォークマンを持っているのは高橋さんだけ、かばんにカセットテープがたくさん入っているのも高橋さんだけ。周りと音楽の話をする機会もありませんでした。

その環境に物足りなさを感じて高橋さんは茨城を出ます。そのころ高橋さんのお兄さんが滞在していたアメリカへ向かいます。

コロラドスプリングスの山を登ったとき。車で頂上まで行けるんですよ。下は土砂降りの雷なのに、そこを抜けると雲海が見えて、満月があって。どーんとそういう壮大な感覚が入ってきて、何かしたいな、と野心が芽生えて。

アメリカから帰ってきてアメリカでDJというものの洗礼を受けて、DJやりたい、単純にクラブに行けばいいんじゃないかと思い、渋谷の街を歩いていたら、Club Asiaという看板があって、DJ募集という張り紙があって。1Fはタイレストランだったんですけどそのときまだ東京に”タイレストラン”ていうのがなくて『タイ料理屋でクラブ、て何だ?』て。張り紙を見ていたら会長が僕の肩をたたいてくて、『明日から来なさい』て。

そのころ、ぼくはまだ音響の専門学生だったんですけど、ほぼほぼ行かなくなり、学校は学校で一応卒業しましたが学校で学ぶことの100倍くらい現場のほうが圧倒的に楽しかったし、圧倒的に覚えることが多かった。

 高橋さんはそこで音響と音響の管理、売り上げから経費としてレコードを買ってDJをする、ハコDJというものをやっていました。お店のコンセプトによってどんな音楽を流すか決まると、例えばボサノバやサルサなど、街に一生懸命レコードを探して集めて、次はHIP HOPでとなると、またHIP HOPを集めにいく、そうやって、高橋さんの好きなボサノバやHIP HOPが集まってきました。それぞれのコンセプトによってセレクトされた音楽、そのお店の基盤となるものが出来上がっていきました。

それこそ、ディスコの流れからクラブになったので、リクエストとかされるんですよ。紙を渡され、これかけてくれて。ボサノバとか。何だ、それ、てなって逆に覚えて。自分から覚えてというよりは強制的に覚えていった。ずっと聞いているとその音楽が好きになり、定番のものを聞いていると、もっとマイノリティのものを聞きたくなって、マイノリティの音楽を探すようになると、魅力的なものがあることに気づいて。自由度が高いとか。その中から自分の音楽やDJのスタイルが決まっていった。

そのうち、だんだんとそれぞれのジャンルのDJが集まってきて、高橋さんは現場からフェイドアウトしていきます。総合演出という役職になり、お店の広報的な役割も担うようになります。

故郷への想いはずっと持っていた

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これは日立駅から見える風景。日立には海を眺められる環境が近くにあります。

東京で働いていた高橋さんは、茨城へ実家に寄らずとも、ただ海を眺めに帰ったり、のんびり民宿で過ごしたり。言わば自分をリセットしに帰っていたようです。

虫の声だったり、街の空気感だったり、波の音だったり。五感で感じれる茨城の環境が高橋さんを元気にしてくれました。地元への愛着はずっと持っていたと言います。
いつかは茨城に戻りたい、そう、思っていました。

子供が生まれてからの生活は大変だったといいます。今までは夜の時間帯が中心だったため、ライフスタイルを変えなくてはいけませんでした。待機児童の問題などもありました。

ちょうどそのころ、クラブシーン、ライブハウスシーンが新しいものではないな、と感じられていたころでした。同じ機材を使っていれば同じような曲が作れるし、オリジナリティに出会う機会が少なくなっていったそうです。このまま東京の生活を続けることに疑問をもつようになります。

そして、奥様の美紀さんが二人目を妊娠したときに、美紀さんの祖母が残してくれた家がある美紀さんの生まれ故郷、群馬県への移住を決めました。

 群馬での生活は住環境は整っていましたが周りの環境といえば、繁華街であり、欲しい物は何でもすぐに手に入る、便利ではあるけれど、決して環境がいい、というわけではなかったと言います。そのときの高橋さんといえば生活のためだけに働いていました。

逆に美紀さんは下の子が保育園に入れるようになって、自分の時間がもてるようになり、働き始めます。実家と言っても、実際の実家とは離れた場所に家があったので、周りには親しい人も知ってる人もいません。パートの仕事から始まり、そこで初めて社会とつながる事が出来て、だんだんとコミュニティを広げていきます。美紀さんの人柄をしたって来る人が増え、ヨガのインストラクターのスキルも生かせる場が増えました。お店をやれるチャンスもきました。

 美紀さんは順調にいっていました。
しかし、高橋さんがのびのびと高橋さんらしく出来る生活はここにはありませんでした。美紀さんの中では茨城という土地が高橋さんに合っている、ということを感じていましたし、何より、美紀さんのほうが茨城に魅了されていたようです。茨城への移住も考えていましたがきっかけがなかった、といいます。

私が茨城に惚れてしまった(美紀さん)

美紀さんは子供たちを連れて、よく茨城を訪れていました。夏になれば子供たちと海水浴をしに茨城の海へ。出産も茨城で里帰り出産をしたと言います。

美紀さん 

私の母は早くに亡くなっているので、彼の実家で『里帰り出産させてください』とお願いをして二人とも茨城の病院で出産をしました。

茨城での生活が想像していたのとは違っていて、茨城は人が優しいし、のどかだし、海はきれいだし、彼の実家がすっごく素敵で、わたしが茨城に惚れてしまって。

何もないけど、何でこんなに心が豊なんだろう、て。生涯住むなら茨城がいいな、と考えていました。

 そんなときに美紀さんは茨城で始まるシェアオフィス『かどや』のサイトを見つけます。すぐに高橋さんの携帯へ連絡をし、メールを見た高橋さんはすぐにその場で担当者に電話をしました。
そのとき高橋さんは、何も用意していなかったので、口頭で、僕はこういう事をしてきて、こういう人間で、茨城に戻りたいと思っている、と説明をしました。

考える前に担当者に連絡をしていた。不安はありました。そのとき友人から同時に日立で店をつくる機会が出来た、手伝ってくれないか、と連絡をもらった。それなら、茨城でやっていけるんじゃないかと3番目の街として選びました。

音楽がつなげた縁

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広島出身の山口浩史さん。自転車で全国を周る。現在、高橋さんのもとに滞在中。まっすぐな眼差しが印象的。

 高橋さんが群馬県で生活していたとき山口浩史さんとの出会いがありました。山口さんは、広島県出身。30歳まで広島で過ごしていましたがあるとき、広島を出る決心をします。
元々、山口さんは日本料理やさんの板前をしていました。飲食の仕事を始めたのは友人の影響でした。

山口さん

広島でずっと働いていて周りの人が一緒。料理以外のスキルがなく過ごしていた。まず仕事を辞めようと思った。理由はいろいろあるけど、一人になりたかった。自分を発揮出来る、自分を出せるものを見つけたい。一人になったほうがいいのかな、と考えて、広島を出れば知っている人もいなくなる。いろんな人に会いたい。

 山口さんは自転車で全国を周る旅に出ます。旅の途中で出会ったのが高橋さん一家でした。
それは飲食店から音楽を発信している秩父のお店からの紹介で、群馬県の太田市にも音楽を発信しているお店がある、と情報を元に訪れた場所が美紀さんが働いていたお店、高橋さんが音楽のプロデュースをしていたお店でした。

山口さん

群馬で出会って、一ヶ月半、家族ぐるみでお世話になって、いろいろ教えてもらったり、いろんな所に連れてってもらったり。高橋さんの人間味溢れる姿、家族を見てると、身近にこういう家族を見れたらいいな、と思いました。

 高橋さんが茨城へ移住した後も、山口さんは高橋さんの元を訪れました。それは、茨城に、というよりも高橋さんが住む茨城に来た、という山口さん。

山口さん

自分にとってお金じゃ買えないものが得られるのではないかと。高橋さんのような家族を築きたい。それ以外のジャンルも影響受けたいと思った。

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まるで家族のよう。子供たちとじゃれ合う山口さん。高橋家に馴染んでいます。

デザインを通したコミュニケーション

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現在の『かどや』。昔のままを残しつつ、中を使いやすいように改装している。
かどや』での活動はまだ始まったばかり。『森のパン工房』の森さんや『Cafe Cream』の小室さんと最近になってようやく話し合えたり、イベントを一緒に計画できたり徐々に動き出せているようです。高橋さんはこの『かどや』での自分達の役割についてこう話してくれました。

自分達はここの街の人たちにとって”よそ者”。”よそ者”が出来る事は長い物に巻かれるのではなく、僕たちの思い、考え方を伝えていくこと。今、ここでは、”県と市”と”街の人”、”僕ら”と”街の人”、”僕ら”と”県と市”との関係がある。僕らはぼくらの思いを伝えておかないと誤解が生まれてしまう。

『かどや会』というものを作ろう、という話をしている。ただ缶ビールを飲んで話すだけ。アイデアの話をしたり、毎日会って話すだけでも信頼関係ができる。

今は、自分達を知ってもらう事、周りとの信頼関係を築くことに重きをおいているようです。取り組みとして、商店街のお店のフライヤーやショップカードを挨拶代わりに作らせてもらいたいと考えているとのこと。パン屋の森さんのところもCafeの小室さんのところも高橋さんがデザインをしました。
デザインされた看板やロゴは、寂しかった街の風景に彩りを与えていました。

物を作りながらコミュニケーションが取れるのは、相手の考え方とかセンスがわかる作業。いろんな街の状況も理解できるし、勉強になる。例えばロゴの話だけで何時間も話が出来る。

それから、趣味でやっているというひとのお手伝いもしていきたい。フライヤーやホームページなど。コストを安くいいものを提供していきたい。

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『かどや』のみなさん。一番左が『森のパン工房』の森基至さん。真ん中が『Cafe Cream』の小室文乃さん。なんと3人とも同じ歳!そして、森さんと高橋さんは小学校の同級生だったという!。運命的なものを感じます。『かどや』で開催されるイベントの打ち合わせ中。こうやってお互いが協力し合えるのもシェアオフィスならでは。

音楽がある街に

そして『Digital Dish』が目指すものとは。音楽を通じた人々との繋がり、広告(映像・紙・web)を利用した地域活性、と高橋さん。
これまでの高橋さんが培ってきたもの、音楽はもちろん、お店を演出すること、広告やプロデューサーとしての経験(Club Asiaの壁を有名スポーツメーカーの広告用に売りに出した事も)を生かした活動が期待出来そうです。

現在、
11/12日の産業祭の新都市広場野外ステージ、DJとして音楽を担当。
11/19日、県北芸術祭グランドフィナーレ
和田永主催『Electoronicos Fantasticos』のサウンドプロデューサー。

音楽を通して何が出来るか。音楽が当たり前のようにある街にしたい。僕は茨城の自然に恩恵を受けているから、どれだけたくさんの笑顔を作れるか考えている。

(Text/Photo: 山野井咲里)