茨城県北クリエイティブプロジェクト

#01 地層の中の「物語」を探して|連載「海と山の間を歩く」|写真家・松本美枝子

写真家・松本美枝子さんによる連載「海と山の間を歩く」スタート!

西に多賀山地を控え、東には太平洋が広がる、日立市。日本3大銅山であった日立鉱山が開かれ、その地質の恵みを礎に、世界最先端の鉱工業で発展を遂げてきた。鉱山が閉じて約40年。海と山に囲まれた豊かな自然の中で、この街の歴史と暮らし、そして今を生きる人々を知りたい。それを探す小さな旅のエッセイ。

すべては日立の地層から始まった

日立市高鈴山にあるカンブリア紀の地層

地中にある岩石の層の重なり、地層——。誰でも一度は、どこかで見たことがあるだろう。では日本で最も古い地層は、いったいいつの頃のものなのだろうか。そしてそれは日本のどこにあるのだろうか。

それは5億3千万年前のもので、茨城県の日立市にある。市の西部に多賀山地と呼ばれる高地が広がる日立市。今から10年前、一人の地質学者が、この多賀山地に日本最古の古生代・カンブリア紀(※)の地層が広がっていることを突き止めた。40年にも及ぶ研究の末のことだった。それまで日本では、約4億年前のオルドビス紀(※)の地層しか確認されていなかった。ゆえにこの発見は日本の地質年代を大きく塗り替えることとなった。そして未だに日本では、日立市周辺だけでしかカンブリア紀の地層は確認されていない。日本の地質学において、日立がとても重要な場所だということがわかるだろう。

私がこの話を知ったのは、今から2年半前のことだ。まず、日本最古の地層を発見した地質学者は、いったいどんな人なのだろうか、と興味が湧いた。そして何より、自分もこの目でその地層を見てみたい。そう思って、その人に会いに行ったのだった。

その地質学者の名は田切美智雄(たぎりみちお)さんという。茨城大学の名誉教授であり、現在は日立市郷土博物館の特別専門員を務めている。「日本3大銅山」と呼ばれた日立鉱山のふもとに生まれた田切先生は、山で遊び、鉱山で働く家族や人々を見て育った。やがて東北大学に進学し、地質学を専攻するようになったのは、自然なことだったという。鉱山において、地質学は必要不可欠な学問だったからだ。

大学院を出た後、茨城大学の教授となり、生まれ育った日立の地層を研究してきた田切先生は、大学を退官した現在もなお、この地層の広がりを研究している。その飽くなき研究にますます興味を持った私は、それからたびたび先生のフィールドワークに同行して、日立市内の山中で地層を撮影するようになった。いつの間にか私自身も、日立の地層のとりこになっていたのである。

そして田切先生は、二年前から新たな研究に没頭している。それはこの日本最古の地層から、生物の痕跡を見つけ出すということ。この地層のどこかに、カンブリア紀に生きた生物が眠っているかもしれない。それを探して、日々、日立の山中を歩き回り、調査しているのだ。もしカンブリア紀の地層から化石が見つかったら、それはすなわち、日本最古の生物の化石、ということになる。

太古の昔、古生代のカンブリア紀では、陸上にはほとんど生物は存在せず、ほぼ海の中だけが生き物の住む世界だったと考えられている。そして日立のカンブリア紀地層は、現在の中国東北部あたりにあった海底火山地帯だったことがわかっている。

つまり田切先生は、現代の日立の山の中で、5億年前の海の中の世界を追いかけているのだ。

これほど胸が踊る研究を間近で見られることも、そうはない。先生の研究成果は、現在どうなっているのかを聞くために、私は今日も日立市郷土博物館に向かっていた。

地質学者の田切美智雄さん

石に埋もれた化石を見つけだす

三葉虫の這い跡の可能性がある化石

「化石の研究は、いま佳境に入っているんです」

取材の冒頭、そう切り出した田切先生。この数日前にも地質学の学会に、“あるもの”を持って参加してきたのだという。

今から一年前の春のこと。実は田切先生は、山の中で、ある重要な化石を発見していた。

日立市にある高鈴山の登山道からだいぶそれた急峻な崖の地帯に、田切先生が「化石の尾根」と呼ぶ場所がある。カンブリア紀地層が多く露出し、ここならその時代の生物の化石が見つかるのではないか、と田切先生が考えていた場所だった。そしてこの日のフィールドワークには、日立ジオネット(日立の地質についてガイドする団体)のメンバーとともに、私も同行していた。

「化石の尾根」には、これまでにも何度か調査に入っていたのだが、この日もはっきりした成果が見つけられず、そろそろ下山しようかという時だった。不意に田切先生がしゃがみ込み、一つの露頭(地層が露出している部分)の前にある藪をかき分けはじめた。みんながあっけにとられる中、田切先生は私たちの眼前に現れた石を指して、にっこりして言った。

「これは三葉虫の這い跡の化石ですよ」

三葉虫とはカンブリア紀からペルム紀(※)の間に生きていた生物だ。日本ではシルル紀(※)の三葉虫が見つかっている。何かが動いたような線の跡が、くっきり残る大きな石。素人の私も他の人たちも、これが三葉虫の這い跡なのかどうか、全く判断できなかった。だがいつも冷静で、とりわけデータの実証については慎重な先生が、はっきりとこう宣言したことに、私は密かに驚いた。これはもしかしたら、ただ事ではないのかもしれない……。そして田切先生は「お祝いです」と言って、私たちに一粒ずつチョコレートを配ってくれたのだった。

この大きな石はその後すぐに、日立市郷土博物館へと運ばれた。さらに同じ時期に、もう一つ新たな化石も見つかった。僅か2ミリほどのその化石は、拡大して見ると管のように見える。なにかの動物の化石であることは確かだという。おそらくカンブリア紀の海中にいたウミユリの先祖のような棘皮(きょくひ)動物の一部ではないかと、田切先生は考えている。

この二つは先日の学会でも詳しく発表され、這い跡の化石の方は「可能性がある」、棘皮動物の化石はさらに、「カンブリア紀の生物の化石としての確度が高い」とされている。確証を掴むまで、さらに調査は続くが、日本最古の生物の化石発見に向けて、大きく前進したことは間違いないだろう。

棘皮動物の一部の化石

化石の調査とは『見れども見えず』の繰り返しだ、と田切先生は言う。それはまさに研究者の実感なのだろう。だって未だかつて、誰もカンブリア紀の生き物を見たことがないのだから。それどころか、種が特定されてない、つまりまだ誰も知らない存在さえも、地層の中に埋まっているかもしれないのだ。「化石を探す」ということは、未知のものに対する予測と、それを実証するための地道な調査に他ならない。

だからこそ、あの日の「化石の尾根」での出来事は、私にとって貴重な体験だった。日立の5億年前の地層に埋もれていた重要な化石が、初めて人間の目に「見えた」瞬間に立ち会わせてもらったのだから。

地質学は物語だ

高鈴山でのフィールドワーク

子供の頃から石や地層が好きだったという田切先生。その興味の源は、いったい何なのだろうか。 前々から聞いてみたかったこの問いに、田切先生は即座にこう答えた。

「地球の長い歴史については、あるところまでしか文献がないでしょう」

さらに先生は続ける。

「だからまだ誰も解っていない部分は、地層を見て空想を巡らし、好きなことを考えていられる。つまり頭の中でロマンチックな小説を書いているようなものなんです。そして文献と空想の間を埋めていくためには、どうしても、基本のデータが欲しくなる」

だから、そのデータを得るために、地層や化石の調査に出かけることになるわけだ。つまり地質学とは、基本のデータを使って、いろんなものが混じり込んだストーリーを人に語れるかどうか、そういう学問なのだと田切先生は言う。

「小説」という意外な言葉に、私は少しびっくりした。田切先生の口からは、もっと、科学的な単語が出てくるように思い込んでいたからである。でもそれと同時に、根っからの文系人間である私自身が、なぜ理系分野である地層の研究のとりこになってしまったのかも、やっとわかったような気がしたのだった。

田切先生が言うように、地質学を「地球の物語」と考えるならば、いつでも誰でも、つまり私のような門外漢でも、自分が立つ大地のことを楽しく学ぶことができるだろう。それこそが地質学の本当の面白さなのかもしれない。

山の中の漣痕化石(波の化石)

もちろん私だけではない。田切先生の研究によって、多くの市民が今まで知られていなかった日立の大地のことを知れるようになった。実際に日立市郷土博物館では、田切先生の地質学の講座に、毎月多くの人が参加しているという。また日立ジオネットでは、シニア世代を中心に、熱心なインタープリター(自然解説を行うガイドのこと)がたくさん育っているのだ、と田切先生は教えてくれた。インタープリターたちは、ボランティア活動として、カンブリア紀の地層見学ツアーのガイドを行っている。さらにベテランのメンバーの中には、田切先生を手伝って、自主的に化石の調査をしている人もいるほどなのだ。

「新しい考え方」を作る

日立鉱山のシンボル「日立の大煙突」

特殊な地層を含んだ豊かな自然が広がる日立だが、一方では誰もが知ってるように、歴史的な近代化の波にさらされてきた土地でもある。明治以降の日本の産業革命によってできた日立鉱山は、たくさんの銅を生産し、それが日本の近代化の原動力の一つになった。さらに日立銅山は、そこで使う機械を作る、のちの日立製作所をも生み出し、日立市は他の周辺地域とは一線を画す、世界的な工業都市として発展していった。

だがその鉱工業の歴史も、やはり日立のカンブリア紀の地層と密接に関わっている。日立鉱山の銅の鉱床は、カンブリア紀の地層の中にあったからだ。日本最古の鉱物も、この鉱床から採れた5億3千万年前の銅の塊なのである。

鉱山を切り開いた人たちは、ここが日本最古の地層の一部であるとは誰も知らなかった。けれども日立の大地に広がる地質の恵みが、近代化されたこの町を形作ってきた第一歩だったことは間違いない。

その日立鉱山も、閉山からすでに37年が経った。鉱山はもうないけれど、そこで生まれ育った研究者によって、日本最古のカンブリア紀の地層が確認され、地質学の歴史は大きく塗り替えられた。

日立鉱山がこの町に多くのものをもたらしてきたとすれば、その最後に生んだものの一つは、カンブリア紀地層の研究、と言えるのではないだろうか——。地層を探しながら日立の山の中を歩く時、私はいつもそんなことを考える。

そしてまた、日本の古生物学の歴史も、日立から変わる可能性を秘めているのだ。

「だからこれからの日立は、新たな目でものを見て、新しい考え方を作っていける、そういう場所になりうるでしょうね」

と田切先生は言う。

茨城大学を退官した田切先生が地質学の研究を続けるために、日立市郷土博物館にやってきてから8年が経つ。市の博物館は、国の研究機関に比べたら小さな存在かもしれない。けれども今、田切先生がいるここに、地質学を学びたい人が集まり始めている。この山の麓の博物館が、日本最古の地層と化石の研究ベースになりつつあるのだとしたら、それもまた、新しい物語の始まりなのだろう。

(文・写真/松本美枝子)

▼編集部注

・地質年代の分類は諸説ありますが、古生代は以下のように分類することができます。(参考:IUGS(国際地質科学連合))
「カンブリア紀」(約5億4100万年前〜4億8540万年前)→「オルドビス紀」(〜約4億4380万年前)→「シルル紀」(〜4億1920万年前)→「デボン紀」(〜約3億5890万年前)→「石炭紀」(〜約2億9890万年前)→「ペルム紀」(〜2億5190万年前)

・日立のカンブリア紀の地層と田切さんについては以下の記事が参考になります。
「日本列島の歴史は日立の地面から始まった?! カンブリア紀地層の5億年の旅を解き明かす」(「未知の細道」外部リンク)

写真家。1974年生まれ。水戸市在住。人々の日常、人間や自然の「移動」をテーマに、写真とテキスト、映像による作品を発表している。
主な個展に「The Second Stage at GG」#46 松本美枝子写真展「ここがどこだか、知っている。」(ガーディアン・ガーデン、2017)の他、「茨城県北芸術祭」(2016)、中房総国際芸術祭「いちはらアート×ミックス2014」など各地のアートプロジェクトにも参加。写真集に『生きる』(共著:谷川俊太郎、ナナロク社)など。

撮影:豊島望

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