茨城県北クリエイティブプロジェクト

#02 百年の気象観測―日立を守る天気相談所|連載「海と山の間を歩く」|写真家・松本美枝子

写真家・松本美枝子さんによる連載「海と山の間を歩く」

西に多賀山地を控え、東には太平洋が広がる、日立市。日本3大銅山であった日立鉱山が開かれ、その地質の恵みを礎に、世界最先端の鉱工業で発展を遂げてきた。鉱山が閉じて約40年。海と山に囲まれた豊かな自然の中で、この街の歴史と暮らし、そして今を生きる人々を知りたい。それを探す小さな旅のエッセイ。

唯一無二の「天気相談所」

日立市役所の4階にある小さな部屋。数台のモニターを前に、3人の男性が忙しそうに画面をチェックしている。画面に流れてくるのは天気図だろうか。他にも市内各地の気温など、さまざまな数値が映っている画面もある。

この空間だけを見たら、ここが市役所の一角だとは、誰も思わないだろう。

ここは日立市環境政策課内の「日立市天気相談所」。そして今この部屋で働いている人々は、みな本物の気象予報士なのだ。ここでは毎日、日立市内の気象観測を行い、独自の天気予報も発表する。そしてその気象情報をインターネットなどで市民に提供するのが、この部署の主な仕事だ。

市役所にこんな部署があるのか、と驚くかもしれない。実は日立市以外の全国の地方自治体で、このような部署はない。一般的に気象の業務は国、つまり気象庁が行う(予報業務は許可制であり、民間が行うことも可能)。ここ日立市天気相談所は日本で唯一、地方自治体が運営する気象機関なのだ。

私がこの天気相談所を知ったのは、地層の写真を撮りに日立の山に登るようになったことがきっかけだった。日立の人たちと山に登るとき、たいてい前日に「明日の『天気相談所』の予報によると……」という連絡が回ってくる。その予報をもとに登山の準備をするのだが、最初はそれが何のことなのか、よく分からなかった。ある時、日立市には「天気相談所」というものがあり、毎日2回、市内各地の天気予報を発表しているんだよ、と教えてもらったのだった。

全国でも稀な、この「日立市天気相談所」はどのようにして誕生したのだろうか。そしてなぜ、この日立市だけにこのような気象機関が存在するのだろうか。

日立市天気相談所に設置されたモニター

天気相談所はこうして生まれた

日立市天気相談所は昭和27年に開設された。しかしそのずっと以前、明治42年からその前身があったという。それが日立鉱山の気象観測所だ。その歴史を聞きに、まずは、元の所長で現在は日立市を退職した気象予報士、冨岡啓行さんのもとを訪ねた。

日本3大銅山と呼ばれた日立鉱山だが、その発展の一方で銅の製錬で生じる亜硫酸ガスが、周辺の木々や農作物に重大な煙害を及ぼすようになった。その対策として建てられたのが「日立の大煙突」であり、さらに鉱山から出る煙の流れなどを観測するために設置された鉱山周辺の19カ所にも及ぶ気象観測所だったのだ。この中には日本初の高層気象観測所も含まれており、山の上を延々と有線電話をつないだ連絡網は、当時、公害(煙害)対策の最先端のモニタリングシステムだったのだ、と冨岡さんは教えてくれた。

やがて煙害が軽減されたことによって、観測所は廃止されることになった。しかしすでに県北地域の気象業務における重要な拠点となっていた観測所は、各方面から存続が望まれ、市に移管され市営の「日立市天気相談所」となったのだった。その際に、天気相談所では、気象庁から予報業務許可を取得している。登録番号は2番で、日本でもっとも古い気象事業者でもあるのだ。

環境問題を克服するために始まった鉱山の気象観測から生まれた日立市天気相談所は、以来60年以上、一日も休むことなく、気象観測、天気予報、情報提供を続けている。

さて昭和の小説家・新田次郎の『ある町の高い煙突』は、この煙害と戦った日立の人々を描いた物語だ。この小説の成り立ちに、実は天気相談所も深く関わっている、と冨岡さんは教えてくれた。

初代所長の故・山口秀男氏は、かつて気象庁に勤務していた。同じく気象庁で働いていた新田は友人でもあった。新田は山口氏を通じて日立鉱山の煙害の事を知り、小説を書くにあたって天気相談所にも訪れ、当時の観測データを取材している。

この小説が世に出たことによって、「日立の大煙突」は、公害を克服した工業都市・日立のシンボルとして世の中に広く知られるようになっていった。

天気相談所の7代目の所長だった、気象予報士の冨岡啓行さん

百年の気象観測

幼い頃の冨岡さんは、市役所の掲示板に貼ってある「天気図」を見にいくのが日課だった。現在のようなテレビもインターネットもない時代である。子ども心にもなぜ毎日の各地の天気がこうしてわかるのか、それが不思議でならなかったという。

このように最先端の気象業務を行っていた日立で育った冨岡さんは、やがて気象学に興味を持つようになる。

高校生ですでに、ラジオを聞きながら天気図を書けるようになっていた冨岡さんは「卒業後は市役所の天気相談所に入る」と決めていた。その頃の冨岡さんは「全国の市役所には、気象業務を行う部署がある」とあたり前のように思っていたのだという。

そして昭和36年、冨岡さんは希望通りに日立市役所に入庁した。市役所に入ってから、このような部署は日立にしかない、ということもわかった。以来冨岡さんは退職するまで、45年間ずっと日立市天気相談所で働いてきたのだ。ただし、最初の半年を除いては。

市役所に入ると半年間の試用期間というものがある。冨岡さんに出た辞令は、福祉事務所に行くことだった。

その年は「三六(さぶろく)災害」と呼ばれる記録的な豪雨があり、全国各地で大きな水害が起こった。日立でも浸水や土砂崩れなどが起こり、犠牲者も出た。

福祉事務所の職員は、犠牲者や被災者のために現場に立って働かねばならない。まだ10代だった冨岡さんは想像もしていなかった辛い仕事をいきなり経験することになり、大きなショックを受けたという。

「試用期間の半年の間に、人生の縮図を見た思いでした。気象が一度牙をむくと、市民の命が奪われることがある。これからは天気で人の命が奪われることがあってはいけない」

このとき、冨岡さんはこう肝に銘じたという。

試用期間を終え、天気相談所に戻った冨岡さんは、それから文字通り休みなく観測の仕事を続けた。気象観測はデータを蓄積することで、統計資料としての価値が上がり、正確な予報の材料となる。だから観測が途絶えることのないよう、自分の健康維持にも気をつけるようにしたという。現在のようにコンピュータも発達していなかった時代、晴れの日も雨の日も、アナログな機械と目視とで正確に休みなく観測を続けることはたいへんな苦労があった。

今でも天気相談所では、開設当初からの古い観測記録を見ることができる。また日立鉱山時代の観測記録は、日立市郷土博物館に保管されている。合わせて100年以上の気象観測記録が一地方自治体にあることは、非常に稀なことだ。この観測記録そのものが、日立市の防災、産業、行政のあらゆる施策にとって大切な基礎資料として活かされているのだ、と冨岡さんは教えてくれた。

日立市天気相談所に残る開設当時の観測記録

天気相談所の毎日

市役所の屋上で目視の観測を行う気象予報士の池田さん(右)と川邊さん(左)

さて現在の天気相談所の毎日はどのようなものなのだろうか。日立市役所の職員であり、気象予報士として働く池田恵介さんと川邊智一さんにお話を聞いた。

天気相談所がある日立市役所の観測所は機械による観測に加え、目視による観測も行っている全国でも数少ない観測点だ。さらに市内には、約5キロの間隔に1カ所の割合で7カ所もの観測所があり、各所でそれぞれ気温、降水量、湿度、風向風速を観測している。また午前9時と午後4時(休日祝日は正午)に日立市を対象とした天気予報を毎日発表している。私が日立で登山する時に参考にしていた気象情報はこれだったのだ。

全国ニュースでの天気予報に比べて、自分が住む地域に特化した天気予報が1日に2回も出るのは、日々の暮らしにかなり役立つだろうな、と私は山登りのときのことを思い出していた。情報提供はホームページのほか、電話でも受け付けている。例えば学校から「明日の運動会は開催できるだろうか」など、さまざまな職場や個人から、毎日のように問い合わせがあるそうだ。

二人が屋上で目視での観測を行うというのでついていった。目の前には太平洋と町が見え、すぐ背後には大煙突がある山がそびえている。「日立市は、山も海も、そして狭いけれど平野もあって、地形にコントラストがある。そのぶん気象も複雑なんですよ」と川邊さんが教えてくれた。

天気予報はデータの解析と経験がものをいう。日々の観測が訓練であり、予報のスキルアップに繋がるという。

池田さんは空の写真を撮っている。毎日欠かさず撮影し、天気予報と一緒にホームページにアップするのだ。「雲の量は、人間の目で見ないとわからないんです」と池田さんは言う。

雲の様子を撮影する池田さん

日立市に生まれ茨城大学理学部で地質や気象を学んだ池田さんは、冨岡さんのように、卒業後は天気相談所で働きたいと思って日立市役所に入庁した一人だ。以来ずっと天気相談所で気象の業務に携わってきた。

天気相談所の仕事は多様だ。毎日の天気だけでなく、公害などの環境対策に加え、災害の対応もある。ベテランの池田さんにとって忘れられない仕事の一つは、あの東日本大震災だ。この時池田さんは、めちゃくちゃになった庁舎の中にしばらく泊まり込み、天気と余震、さらには放射線の情報などを取り続け、復旧活動を行っていた自衛隊にも毎日天気の情報を送っていたという。まさに天気相談所が、震災時の市民の生活を守る最前線の一つだったわけだ。

「池田さんは桜の開花予想のプロでもあるんですよ」と川邊さんが言う。実は動植物を観察するのも気象観測の一つ。毎年、気象庁で桜の開花宣言があるように、日立では池田さんが桜の開花を観察し、予想するのだ。

ちなみに桜も大煙突と並ぶ日立市のシンボルだ。鉱山の煙害から山を守るために植林されたのが、煙害に強い大島桜だったからだ。春、町や山に咲き広がる桜は、鉱山と大煙突と天気相談所の歴史をつなぐ存在とも言える。

天気相談所の役割

大学生の頃から気象予報士を目指して気象学を専門的に学んでいた川邊さんは、大分県の出身だ。川邊さんはこの天気相談所に入って3年目。それまでは千葉県にある民間の気象会社で働いていた。

日立市では、これまで市役所の職員が気象予報士の試験を受けて相談所に配置されることが多かった。しかし気象予報士を確保するために、日立市が中途採用を募ったところ、全国の気象予報士から応募があり、採用されたのが川邊さんだった。

「気象の世界に入ってから、この天気相談所のことは知っていました」と川邊さん。地域に特化した日本唯一の機関としての気象業務に、魅力を感じていたという。

「広域の気象データは、その情報量を使いきれないことが多いけれど、日立では天気情報が、生活や行政の現場にすぐ届くので、情報を十分に活かすことができる。」と川邊さんは続ける。池田さんも「相談所の隣には防災センターがあるので、台風や地震など、気象の変化があったらすぐ重要な情報を共有し、いち早く対応することができるのです」と教えてくれた。

天気相談所があるおかげで、気象情報が日立市の防災に行き届いているというわけだ。

私は冨岡さんの言葉を思い出していた。

「現代、ますます気象が激烈になって災害が増えていることを考えると、日立のように各市町村に天気のプロが必要なんです」

冨岡さん、池田さん、川邊さんのように天気のプロは、私たちと違って気象が変われば、その先どんなことが起こるか、ある程度予測することができる。

もし各地方自治体に気象業務の組織があれば、気象データをうまく使って、地域の人にすばやく必要な情報を伝えることができる。そうすれば大災害で人々に被害が及ぶのをもっと減らすことができるだろう、と冨岡さんは考え、各方面に意見しているそうだ。10代で大災害の対応を経験した冨岡さんから聞くと、真実味がある。実際に気象庁では、全国の市町村に予報士を派遣する実験がはじまっている。

これからの天気相談所は、その存在がもっと多くの人に知られるように、広報に力を入れていきたい、と池田さんと川邊さんは語る。講演会やワークショップの開催、学校への出前講座などもその一つだ。授業を受けた子供たちの中から、第2の池田さんや川邊さんたちが出てくるのかもしれない。

100年前から先駆的な存在であり続けた日立の気象観測、そしてそこから発展した天気相談所。気象観測で環境やくらしを守る、という縁の下の力持ちのような存在は、これからの時代、もっと重要になっていくことだろう。

天気相談所のみなさん

写真家。1974年生まれ。水戸市在住。人々の日常、人間や自然の「移動」をテーマに、写真とテキスト、映像による作品を発表している。
主な個展に「The Second Stage at GG」#46 松本美枝子写真展「ここがどこだか、知っている。」(ガーディアン・ガーデン、2017)の他、「茨城県北芸術祭」(2016)、中房総国際芸術祭「いちはらアート×ミックス2014」など各地のアートプロジェクトにも参加。写真集に『生きる』(共著:谷川俊太郎、ナナロク社)など。

撮影:豊島望

Topへ