茨城県北クリエイティブプロジェクト

#01 岡倉天心が五浦で見たもの|連載:クリエイティブのフィールドワーク

クリエイター。「造物主」や「神」といった言葉の原義を知ると、自称はもちろん、他称されることも遠慮したくなる名称だが、その原義にせまるほどの気迫と才気を発揮し、創造活動をしたクリエイターが、かつてこの茨城県北に移住した。いや正確に言うと、飛来した。それがご存じ、岡倉天心だ。一般的には思想家と呼ばれるが、その歩みを知ると、並外れた行動力によって、文化や美術に関する荒事を成し遂げていった革命家といった印象が強い。眼差し、手つき、発声、歩み、一挙一動から思想が溢れてくるような、特異な存在だったことが、著作、評伝や逸話、残された資料から伝わってくる。好き嫌いはさておき、茨城県北地域で、クリエイティブな思考や態度を考えるとき、決してその存在を無視することができない、茨城県北最大のクリエイターと言える。

1903年の5月上旬、天心は初めて北茨城は五浦の地を訪れた。41歳のときだった。到着するなり、同行した北茨城出身の弟子、飛田周山に「これはよろしい。ここに決めます。飛田さん、すぐに此処を買ってきてください」と言った。太平洋が一望でき、阿武隈高地東縁の小さな入り江をいくつも持つ岩石海岸である五浦の地を、一目見て、自らのものにすることを決めた。その時代の五浦は、まさに未踏の原野。物理的にも、精神的にも辺境の地であった。その後、日本美術院を移転させ、ボストン美術館の東洋美術部門の責任者として一年の半分をボストンで過ごし、半分を五浦で過ごす日々を過ごした。天心を語る人たちにとって、五浦は私的な隠棲地であったという評価がほとんどだが、果たして本当にそうなのだろうか。いや逆に、私的な地だからこそ、天心がその生涯をかけて見ようとした何かがあるのではないか。実際に五浦へ行ってそのことを追想してみることで、僕自身のクリエイターとしての方法論も、茨城県北という場所において再検証していく。そんな旅を試みた。

岡倉天心の歩み

岡倉天心のことをあまり知らない人のためにも、手みじかにその歩みを紹介したい。明治維新前夜の横浜で生まれた天心は(本名:覚三)少年期から才覚を発揮、早くから英語を習得する。東京大学在籍時は、お雇い外国人教師アーネスト・フェノロサの通訳として、奈良や京都を中心に古社寺の視察調査を行う。フェノロサは西洋文化崇拝の時代風潮の中、日本美術を高く評価し、天心に深く影響を与えた。卒業後、文部省の官僚を務め、その後、開校して間もない東京美術学校(東京藝大の前身)の校長に就任する。その傍ら、明治政府の美術行政、あらゆる分野の要職につき、美術界の中心的人物に上り詰める。しかし一転、女性スキャンダルをきっかけにそれらを辞職。が、4ヶ月で新しい組織、日本美術院を設立。いわば、天心率いる民間の制作集団。だが、三年も経たずして運営に行き詰まる。この時、30代も後半に差し掛かる頃。突然インドに渡り、以降、怒涛の海外活動期に入る。五浦に帰国時の拠点を構えたのはこの頃。『東洋の理想』『日本の覚醒』そして代表作『茶の本』を相次いで英文で執筆し、出版。国際的な文明批評家としての知名度を獲得し、ボストン美術館の中国・日本美術部長に就任するも、51歳の若さで病死した。

そもそも、クリエイターとは誰か?

2019年の6月上旬、この日の五浦は、曇り。灰色の空は、天心の高弟であり、共に五浦に居を構え、絵画の制作に没頭した横山大観、菱田春草が試みた描法、朦朧体を思わせる。天心が思索に耽ったとされる六角堂や旧天心邸が見渡せる五浦岬公園に向かう。何度か五浦には来ているが、この公園を訪れるのは初めてのことだった。あたりに人影は見当たらない。早速、海が見えてくる。間違いなく天心も、剣先のように鋭い眼をもってこの海を見た。しばらくじっと海を眺め、深い静けさの中にいると、なぜだか分からないが、少し背筋が寒くなってくる。樹上のカラスが、さっきから執拗に鳴いている。

冒頭、岡倉天心を茨城県北最大のクリエイターと言った。だが、そもそもクリエイターとは誰なのか。明確な定義は難しいが、今日の解釈では、創造産業の担い手、と言えるだろうか。そして多くの場合、それは“都市において”限られている。この事は、映像という都市によって産み落とされた道具を使い、都市ではないものを主な被写体とする僕の実感にもとづいている。クリエイターは、リンゴマークのパソコン1台あればどこでも創造的な仕事ができると思われがちだが、実はその存在は都市的な価値観の中に限られていることが多い。農家が田んぼや畑がなければ仕事ができないことと等しく、クリエイターも都市がなければ仕事ができない。その事を自覚しないクリエイターが、地域で仕事をしようとする場合、当然のように都市を持ち込もうとする。そして、こう言われてしまうのだ。「お客さん、持ち込みはご遠慮願います」と。

五浦への移住を「都落ち」と揶揄された天心の時代とは違い、今やクリエイターが地域で仕事や活動をしたり、拠点を構えることに何ら抵抗がない時代になっている。だからこそ、クリエイターは都市的な創造力を持ち込むのではなく、それぞれの地域にローカライズした創造力を育むべきだと思う。尺度は違えど、このことは「西洋」に対して「アジア」を精神的に地続きの一つの地域とし、そこに固有で普遍的なものを見ようとした天心の思想といくぶん重なる点があるのかもしれない。

残響が漂う海

映像作家として、クリエイターの端くれである僕が作りたいものは、独自であり、自由であり、ミクロであると同時にマクロであり、他者の人生に何かしら寄与できる映像だ。その方法を、クリエイティブの荒野、茨城県北でのフィールドワークにおいて探求している。そして今、目の前には岡倉天心が見た、五浦の海がある。現在、六角堂や旧天心邸を管理する茨城大学で教授も務めた森田義之氏は、『五浦時代の岡倉天心』という論考でこのように述べている。

天心が求めたものも、風光明媚で温潤な「園芸的」「公園的」美ではなく、人間存在を超える荒々しさと厳しさをたたえた、雄渾な ― いわば宇宙的なスケールをもつ ― 風景美であった。(『五浦時代の岡倉天心』中央公論美術出版)

これは、そのまま天心の人物像に当てはまる。五浦の海を眺めて、僕が感じた静かな恐ろしさというものも、どこか天心像と重なる部分があるような気がする。そう考えると、天心の存在の残響が、100年を超えてなお、ここには漂っている気がしてくる。風景と人が一体になる。果たして、そんなことがあるのだろうか。写真家で著述家の港千尋氏は近著『風景論』のなかで、詩人である大岡信の言及に触れている。

大岡信は『日本の詩歌』のなかで日本語の特質が和歌、特に恋歌のなかに凝縮されているとしながら、日本では恋歌がそのままの姿で風景詩であり、自然詩でもあったところに独自を見ている。(『風景論』中央公論新社)

続けて、『日本の詩歌』の中から、以下を引用している。

私はこの「叙景詩」あるいは「自然詩」が、日本のあらゆる形式の詩の中で、古代から現代にいたるまで、ずっと中心部分をなしてきたということを、ここで明確にしておきたかったのでした。その上で私は、「叙景詩」あるいは「自然詩」の中心主題は、おどろくべきことに、明確な輪郭をそなえた客観的な自然の描写ではまったくなかったということを申し上げておきます。(『風景論』、『日本の詩歌』引用文より一部引用)

ここから分かることは、この列島にいたかつての「クリエイター」たちは、自らの抒情やイメージは風景と一体であり、風景と溶け合うことを常としていたことだ。作るものが風景そのものであり、風景が作るものそのものであった。そして天心も、その伝統から逸れることなく、自身の創造性と五浦の風景を交じり合わせた。天心だけでなく、弟子の木村武山、菱田春草、横山大観、下村観山もそうであり、四人が五浦の海と対峙しながら制作に没頭する有名な写真は、まさにそのことを彷彿とさせるものだ。そして、五浦だけでなく、日本のあらゆる風景には、先人たちの抒情やイメージが(その風景がある限り)残響しているのではないか。そんな風に思えてきた。

風景が風景と重なる

もしかしたら、地域とクリエイターの可能性は、先人に倣い、風景の中に見い出すことができるかもしれない。風景は、あらゆる地域に存在する。また、五浦の海が、同じ茨城県北の日立の海とさえ違うように、二つとして同じ風景はない。むしろ都市部にこそ、同じ景色が溢れ、風景は失われつつある。

作家の村上春樹が書いたものに「使いみちのない風景」という短いエッセイがある。その中で村上春樹は、人が旅に出る目的をこう述べている。

たぶん僕らはそこに自分のための風景を見つけようとしているのだ。少なくとも僕はそう思う。そしてそれはそこでしか見ることのできない風景なのだ。どれほど使いみちがなかったとしても、それらの風景を僕らは必要としているのだし、それらの風景は僕らを根本的にひきつけることになるのだ。(『使いみちのない風景』中公文庫)

ここで言われる風景とは、おそらく眺める対象としての外側の風景だけではないように思う。内側の風景、つまりは心象風景とも言い換えることができる風景をも言い含めている。再三言うようだが、天心は五浦の海に、自らの心象風景を見たのではないか。その心象風景は天心にとって、創造性の源泉とも言える風景であり、使う使わない以上に、内外の風景が重なり合ってしまったのだ。外側の風景は、内側の風景に形を与え、内側の風景は、外側の風景に特別な意味を見い出す。そうした風景が、僕たちクリエイターに必要なのは言うまでもない。

今回から、クリエイティブのフィールドワークと題した連載シリーズをはじめたい。「茨城県北クリエイティブプロジェクト」と言うからには、茨城の県北地域とクリエイティブなヒトやモノ、コトがどう繋がるのか。それについて考えたり、話を聞いてみたり、ときには実際に何かをしてみたりすることで、その線を浮かびあがらせることを目的とする。実際に、僕と同じようなクリエイターの皆さんが、数ある地域の中から、茨城の県北地域に興味を持ってもらうきっかけになればと思っている。

文・写真   山根晋

山根 晋

映像作家 / プロジェクトディレクター

1985年生まれ、神奈川県在住。大学卒業後、広告営業や雑誌の立ち上げを経験。その後、千葉県九十九里に移住し、大工や林業の仕事をしながら映像制作業を独学で始める。近年は、映像人類・民俗学、思想や文化、古今東西の手仕業などの関心領域から、日常性の中に在る記憶や物語、関係をテーマにした映像をつくる。また、企業や自治体の情報資産の制作や記録を担う。茨城県北クリエイティブプロジェクトでは、2017年4月よりウェブサイトの情報制作ディレクターを務めている。shinyamane.com

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